駅弁が教えてくれた「老い」という明るい未来

 

「老い」について書いてみたい。

 

ただし、出来るだけポジティブに書くこと。と、いま自分に条件を課した。笑

それもそうだ。老いを語るにはちょいとまだ少し気が早い。

 

先日、自分の老いについて考える出来事があった。

 

僕はここ10年以上、仕事の関係で自宅のある名古屋と東京を往復する生活が続いている。平均すれば毎週往復していると思う。

 

そんな生活の楽しみのひとつが、「駅弁」。

名古屋に帰る新幹線に乗る前に、駅弁を選ぶことが楽しみなのよ。

立ち寄るお店は大丸地下の食品売り場と決まっている。

 

先日も、いつも通り大丸の地下に立ち寄った。まだ時間が夕方だったためそれほど食欲もなかったが、食欲があろうとなかろうと、駅弁を買うのが僕のルーティン。

 

しかし、その日は思いのほか気分が乗らなかった。いつもは高いはずの駅弁モチベーションが、食欲の無さに負けているのだ。

よし、今日は量より質だ、と、少し小さめの鉄火丼弁当を選ぶ。

 

新幹線の座席に座り、弁当を広げ、ゆっくり食べ始める。

もちろん美味しい。しかし、やはり食べるペースが上がらない。

 

そして事件は起きた。

新横浜を過ぎたあたりでも全部食べ切れず、ついにはご飯を残す決断をしたのだ。

 

控えめに言って、これは自分にとって事件だった。

駅弁に限ったことではなく、物心がついて以来、ご飯を残したことが一度も無いのが僕の自慢だった。基本的に食欲旺盛なほうだし、ご飯を残すことは農家の方に申し訳ないという気持ちもあって、お米を一粒も残さないように食べるのが習慣なのだ。

 

それなのに、この僕がご飯を残す日が来るとは。「老い」を感じた瞬間だった。

 

食べられないものは仕方がない、と、清々しく気分を切り替えることができた。

さすがにご飯の残った弁当箱をゴミ箱に捨てた時は気が引けたが、一方で、何か新しい感覚が僕の中に芽生えた。

ご飯を残すことが、「ギブアップ」ではなく、「前向きな判断」に感じたのだ。

ようやく、自分の体調と上手く付き合っていく感覚が分かった気がした。

 

振り返れば、食に対する変化の予兆はあった。

昔は食べるスピードが速く、品川到着前に食べ終わることが多かった。

東京駅で迷いに迷って厳選したお弁当を、品川到着前に食べ終わるなんて、なんとも味気ないものだ。ところが徐々に、ゆっくりとお弁当を味わい、新横浜あたりで食べ終わることが多くなっていた。

 

そんな自分の変化に合わせ、もう少し自分の体調と上手く付き合っていくべきだったかもしれない。

 

さて、食欲も体力も、いろんなことが人生の折り返し地点に近づいてきたようだ。

 

けれど、今の自分は人生の折り返し地点と考えるのではなくて、ようやく山の頂上にまで登ってきたと考えたい。頂上だからこそ見られる景色がある。

あとは、ゆっくりと山を下っていくのだ。

山を下っていくという表現は寂しく聞こえるかもだけど、決してそうは思わなくて、

頂上から見下ろせば、麓はぐるり360度広がっている。どこの麓にどうやって下りるかは、自分で決められる。

山の上に立っているからこそ、麓にどんな風景が待っているのか、なんとなく見ることができる。

今まで登ってきた登山道をそのまま折り返して下っていくのも良いし、まったく新しい景色の中をゆっくり下っていくのも悪くない。

人生の前半、周囲と競い合って1つの頂上を目指した余裕の無い頃の自分とは違い、今はもう余裕に満ちているはず。駅弁をゆっくりと味わって食べるように、自分と上手く付き合って、自分らしくゆっくり山を下りていこう。

そう考えれば、何とも明るい未来が待っているではないか。ありがとう、鉄火丼弁当。