宇田川元一著「他者と働く」


「『わかりあえなさ』から始める組織論」。
この副題は、まさに日々直面している悩み。笑

同じようなタイトルは以前にも手を伸ばした記憶が。
こういう人と人の関係性を語る本は大好物。
平田オリザ著「わかりあえないことから」

世の中の課題は2つに分けられる。
自分が頑張れば解決できる課題、「技術的課題」と、
他人を動かさねば解決できない課題、「適応課題」。

すなわち適応課題とは、人と人の関係性で生じる問題であり、
関係性を変えていくことでしか解決できない問題である。
でもって、世の中に転がっているほとんどは適応課題である。

そんな中、
自分は、「他人と過去は変えられない」と思っていて、
はなから他人の考えを変えることをすぐに諦めてしまうタイプ。

これ、言い換えると、課題解決能力が低い、ということ。
あかんやん。

でも自分はたぶん、課題解決に向けた「計画」は得意、「遂行」が苦手。
今回の話はこの「遂行」をいかに頑張るか、ということだね。
ということで読む。

■適応課題は4つに分けられるよ
・わかっちゃいるけど解決出来ない、ギャップ型
・言えない関係、抑圧型
・お互い合理的だけど利害がぶつかる、対立型
・問題に向き合わない回避型

■キーワードは「ナラティブ」
ナラティブとは物語のようなもの。人には人の物語がある。

個人とは、「個人と、個人の置かれた環境である」という言葉があるように
個人を形作るのは内発的な思考だけでなく、置かれた組織や習慣によって
その判断基準や価値観が作られる。

つまりナラティブとは、
それぞれの立場の常識や価値観に基づいた解釈の枠組みのこと、と認識した

私とそれ、という道具的な関係から
私とあなた、という固有の関係へ。

誰も悪くない。人には人の物語がある。
それぞれが、それぞれのナラティブに合理的に生きている。

それらを敵対せず、連帯意識で捉え、
いかに相手が捉えている自分の物語を、お互いの対話に向けていくか。

■溝に橋をかける4ステップ「ナラティブアプローチ」

準備:自分と相手に溝があることを理解
観察:相手のナラティブや相手の環境をしっかりと観察
解釈:相手側に渡り、相手のナラティブを構築し、同時に相手側から自分を見る
介入:橋をかけるポイントを探り、行動する

見えないものを見よ。観察第一、
何が分からないかが分からない状態からの脱却。

そして、相手になったつもりで相手のナラティブを自分なりに構築してみて
かつ相手側から自分を見てみる

自分が自分のナラティブの中においてしか物を見ていなかったことに気づき、
自らを改めることを通じて、
相手と自分との中に今までになかった関係性の構築を目指す

自分のナラティブに相手を引き込んだり
相手のナラティブを捨て去ろうとするアプローチではなく、

相手がより良い実践ができるように支援。
その相手の実践の中で、こちらの考えや取り組みの相対的な位置を得ていくことによって、自分も他社も両方が生きられる関係を目指す

 

◾️あるある

・既存営業と新規営業の部門対立
赤字を垂れ流す新規営業への目線の厳しさに対し
短期収益という軸だけで見ると話が噛み合わない。
そこで、新規営業部署に人材育成を担わせる、
実験的なことを行い既存営業にフィールドバックなど、
新しい役割、新しい関係性を作るパターンもある

・営業と法務という部門対立
後工程、あるいは前工程を経験させ、大変さを実感させる。
自らのナラティブに招き入れる。
企業内のローテーションはこの意味合いも強い。

・上司部下の関係
部下の正論ナラティブは通用しない。
なぜなら、当然上司には上司の立場のナラティブがあるから。

かといって、はなから諦めちゃうと大企業病。
大企業病なのは、提案を妥協した下の側もそれに加担していると気づくべき。

立場が下の人間は、上の人間を悪者にしておきやすい。
立場の弱い人間はいくらでも人のせいにして逃げ道があるから。

上下ライン3レイヤーで勉強会をして同じ目線になる。繋がりを再構築する、など、孤立せず橋をかけておく

 

■決して妥協や迎合ではない

ナラティブアプローチは、
自分を曲げて相手に合わせること、ではない。
それは、人を動かすことは難しくて、諦めるのが当たり前、と思っていないか?

信念と誇りを持ち、誇り高く生きよ。

鴻上尚史著「『空気』と『世間』」


この本が出版されたのは2009年。
つまり、SNSが一般化する前に書かれている。

「多様性を認め喜ぶことで、何とかこの厄介な世界を生き延びたい」というのが著者の執筆動機だと書かれているが、この厄介さは、この10年できっと拍車がかかっていると思う。

「生きるのが窮屈なら、たとえ緩くても良いから2つ以上のコミュニティに関わりなさい」と、最終章で書かれた著者からのこのメッセージは、おそらく中高生や若者に向けて発せられたと思うが、今の時代であれば、このメッセージ通りに行動に移すハードルはかなり下がっている。一方でそのコミュニティから外れてしまう恐怖や落ち着きのなさ、といった気持ちは逆に一層高まっているだろう。

また、著者が指摘する、「帰属意識を感じるためには、他者を攻撃することでしか得られない」という現象も、このネット社会でさらに拍車がかかっていることは間違いない。
1つの対象を攻撃し、攻撃する者同士の一体感が満足を生む。そしてその満足を維持するためには、他者を攻撃し続けるしかない。

とかとか、「空気と世間」のありかたも、この10年ですごく変わったことを実感した。

もともと定義が曖昧な言葉がテーマ。
特に、この著書における「世間」の定義は「利害関係のある周囲の人の総称」としている。

この定義だと、自分の中では「コミュニティ」という言葉のほうが近い。逆に自分の中の「世間」は、ほぼ「社会」と同義。

この定義がしっくりこなかったから、文章は読みやすくても、あまりスムーズに読み進めることが出来なかった。

その分、自分の体験と照らし合わせがなら、ページをめくる手をとめて何度も物思いにふけながら読み進めたので、読み終えるまでにめっちゃ時間がかかったw

平田オリザ著「下り坂をそろそろと下る」


「まことに小さな国が、衰退期をむかえようとしている」
坂の上の雲の出だしから始まったのが印象的。

坂の上の、さらにその上の雲を目指して突き進んだ明治から、ついに、その坂の上から下りることになった今。

きっと急坂。
僕らはその坂をどう下っていけばよいのか。

資本主義の「富」という、ただ一点の頂に登りつめた後、
見下ろしてみれば、裾野は360度に広がっている。
さあ、どこへどうやって下りて行けばよいのか、いまの日本はまさにどんな状態だろう。

どうやら参考になる下り方は、
人足早く下り坂になっている「地方」にあるらしい。

「地方創生」を、いかにお金のバラマキではなく、文化とセンスで有意義に進めることができるか。

若い人は職がなく東京に行く。そして、戻ってきても仕事がない、結婚できない、出会いがない。それが実体だからこそ、地域にいかに「センス」を持ち込むか。

地方を、
終の住処ではなく、
経済活動が行われる場所へ。

いま地方でチラホラと見かける「センス」こそ、それほどのお金がなくとも楽しくイキイキと暮らすための、命の源なのだろう。