「はあ? また行くの?」
案の定、妻はそう言い放つ。当然だ。妻は何も悪くない。
「すいません」
私は無表情に、蚊の鳴くような声で返事をするしかない。
よっぽど蚊のほうが元気なくらいだ。
しかし待て、蚊は鳴くのか? おそらく蚊が飛ぶ羽の音を「鳴く」と表現しているのだろう。なんとも強引な表現だ。しかし上手いこと言い換えているものである。なぜなら、まさに自分が蚊のようにプ~ンと妻のもとから飛んで消え去りたい気分になるのだから。
それは良いとして、このやりとりが何かと言えば、週末に自分が釣りに行くことを妻に告げる時に、何度も繰り広げられる会話である。もはや会話と呼べるものでもない。片方はすでに蚊になっている。
このやりとりは、年間に15回ほど繰り返される。
厳密に言うと、約30回なのだが、残りの15回ほどはLINEでのやりとりとなる。
直接話す場合もLINEの場合も、デバイスが口と耳かスマホになるかの違いで、まあ、その会話の内容は冒頭のやりとりとほぼ同じである。
私が趣味としている渓流釣りは、釣りが出来る期間が決まっていて、たいていの川は毎年3月から9月までである。残りの10月~2月は魚の産卵と成長の期間のため禁漁となる。したがって、釣りができる期間は7か月間、週にすると約30週。つまり、私はほぼ毎週釣りに出かけているわけだ。
渓流釣りにもいろいろと釣り方の種類がある。その中でも私はテンカラと呼ばれる毛針を使った渓流釣りをしている。フライフィッシングという名前は聞いたことがある方もいるかもしれないが、そのフライフィッシングの道具をもっとシンプルにした、日本古来に伝わる毛針釣りのジャンルである。
毛針釣りは、基本的には釣ること自体を楽しむゲーム性の高い釣りのため、魚を釣っても持ち帰らない人のほうが多い。近年は川魚が様々な自然環境の変化や人工的な自然破壊の影響で激減している。そのため、魚を少しでも残すよう、キャッチ&リリースといって、釣った魚をその場に逃がすことが通例である。
つまり、妻にしてみれば、毎週旦那が釣りに出かけて、魚を1匹も持って帰らずに帰ってくるのである。晩御飯のおかずの食材にも全く貢献しないのである。
意味が分からないだろう。
あんた毎週、何しに行ってるのだ、と。ごもっともである。
しかし私は、そこまでして、なぜ毎週釣りに行くのだろう?
一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。
三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい。
八日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。
永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。
これは、中国に古くから伝わる諺である。
この諺、誰によってどんな文献で書かれたのか定かではない。
しかしこの諺、世の釣り好きオヤジが自分を正当化する際に往々にして引用するフレーズであることは間違いない。
結婚の幸せ賞味期限が三日間というのが驚き半分納得半分だが、「永遠」の代表として釣りが出てくるのは、釣り好きとしては極めて光栄であるし、納得である。
それくらい釣りは、人生に幸せをもたらしてくれる。
私にとっての幸せの源泉、つまり毎週釣りに出かけてしまう楽しさの本質、それは何と言っても「不確実性」である。
もちろん釣りだけでなく、仕事もスポーツも人間関係も、不確実性だらけだ。
他人と関わるもの、自然を相手にするものなど、自分のコントロールが届かず、思い通りにならないものを相手にする行為は、すべて不確実性が伴う。言ってしまえば人生そのものが不確実性の固まりだ。
その中で、なぜ私が釣りの不確実性こそ楽しいと思うのか。
ズバリその理由は、水中が見えないからだ。
スポーツや人間関係と違って、対峙する相手(魚)が目に見えない。そもそも目の前に流れる川には、魚自体が居ない可能性だってある。それすらも分からない。
すべてが自分の想像力にかかっている。
山と川に囲まれる大自然は、そこに居るだけで気持ちいいものだ。
さらに、その自然がもたらす季節、地形、天気、気温、水温こそが、釣れる確率を最大限高めるための大事な情報となって、私はさらに頭を働かせて想像をするのだ。
その行為が最高に楽しい。
それが、私が毎週釣りに出かけてしまう理由だ。
一日の釣りを終えて、満足して帰ったことはない。
あまり釣れなかった日はもちろん、たくさん釣れた日でさえ、何らかの悔しさが残るものだ。
想像力に終わりはない。だから、毎週出かけてしまうのだ。
今年も、もうすぐ春が来る。
また私は、「すいません」と蚊の鳴くような声を放ち、そそくさと釣りに出かけるのである。