「うわ、村上春樹がここに全部集まってる!」
興奮である。
新潮文庫の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の横に、講談社文庫の「羊をめぐる冒険」があり、その横にハードカバーの「カンガルー日和」と「パン屋再襲撃」。
並んでいた文庫本の出版社はバラバラ、サイズもバラバラ、まるで家の本棚みたいだ。
その下には小説の中で登場するのであろうJAZZのCD。さらにその横には、おもむろに大判サイズのサンドウィッチのレシピ集のような本。本棚の脇には、10個くらいの個包装が繋がったピーナッツのお菓子がぶらさがっていた、
今でもその風景が脳裏に焼き付いている。もう25年以上も前のことだ。
まだ僕が名古屋の田舎臭い大学生だった頃、ケミカルジーンズを履いて訪れたのが、今まで見たことのない独特の雰囲気を持つ本屋、それが、ヴィレッジヴァンガードだった。
受験勉強ばかりで過ごした片田舎の高校を卒業し、大学生になったばかりの僕にとって、ヴィレヴァンは刺激が強すぎた。出版社別の文庫シリーズが並ぶのでなく、村上春樹の作品が出版社やサイズに関係なく、1か所に集められた陳列に、それはそれは大きなカルチャーショックを受けた。こんな並べ方があるのか! と。
背伸びをして村上春樹を読み始めていた当時の僕は、この本屋に通えば、自分がいい感じの大人に成長できる予感がしたのを覚えている。
それから、ヴィレヴァンに通った。
世間知らずの片田舎の大学生にとって、ヴィレヴァンは最高の情報源だった。まだインターネットの無い時代である。新しい世界に出会える場所はここだけだった。本を買わずに立ち読みをして、その店の雰囲気に酔いしれる日が何度もあった。学生時代は、本当に何度通ったか分からないくらいだ。
大学3年生になった。
そろそろ就職先考える時期だったが、当時の自分には明確な将来イメージが無かった。部活とアルバイトに明け暮れる中、さすがに焦りを感じ始めた時も、向かった先はヴィレヴァンだった。
建築の本、車の本、旅の本、インドの本、デザインの本、いったい自分は何に興味があるのだ? 何に熱中できるのだ? ヴィレヴァンに並ぶ本のタイトルはシャワーのように僕に降りかかり、焦りが募るばかりだったのを覚えている。
しかし、その中で目を惹いた「広告批評」という小さな雑誌がきっかけで、広告業界に対する興味がわき、結果的には今の仕事に繋がっている。
20代後半、また人生に迷っていた。
大学を卒業し、運よく希望する業界に就職できたものの、どうも仕事に熱中できていない自分がいた。ぼんやりとした将来への不安と手応えのない生活にただ焦っていた自分は、この頃も時々、夜中に思い出したようにヴィレヴァンに足を運んでいた。
当時の自分が、それで悩みを解決出来たのかは分からない。きっと何も解決しなかっただろう。それでも、ヴィレヴァンで時間を過ごすことで、帰る頃には少しだけ穏やかな気分になったことをはっきりと覚えている。
遊べる本屋、それがヴィレッジヴァンガードのキャッチフレーズだ。
「おもちゃ箱をひっくり返したようなお店」と言われることもある。
確かに、全国に店舗が広がり、ショッピングモールの店舗も増えた。客層に合わせた商品構成の影響からか、書籍よりも明らかに雑貨の比率が高まり、今では本屋ではなく雑貨屋の雰囲気である。
でも、僕にとってのヴィレヴァンは、れっきとした「本屋」であり、
そして、将来の道を示してくれるハローワークのようなものである。
ヴィレヴァンは、生き方の選択肢をもらえる場所。
雑然と並んだ本棚だからこそ、横の棚にどんなジャンルの本が並んでいるのか分からないからこそ、偶然に生きるヒントを探すことができた。
自分はその選択肢を上手く選べたか分からないけれど、何とか幸せに暮らせているのだから。
僕に限らず、誰しも、答えが見つからない焦りを感じることがあるだろう。そんな時、気分転換に、そして何かのヒントを探しに本屋に行く人もいるだろう。
そんな時は、できれば、ヴィレヴァンがオススメである。偶然のヒントが転がっているかもしれない。もちろん天狼院書店も良いけれど……。
いつのまにか僕も、かなりのオッサンになった。
四十にして惑わず、とはよく言うが、40代も半ばを過ぎたというのに、今だに惑いまくりである。
つまり、今もなお、僕にはヴィレヴァンが必要なのだ。
僕の人生のハローワークは、ヴィレヴァンなのだ。
あの喧騒の店の中で過ごした時間が、いまの僕を支えてくれている。