読むべき「空気」がある幸せと不幸せ

自分は空気を読むことが得意で、積極的に空気を読んでしまう性格。
これからの社会を生き抜くにおいては、それはデメリットでしかない。

さて、空気を読むとは、その場の集団や特定の誰かに配慮した判断をすることであり、それは往々にして自らが本当に達成したい目的からは遠ざかる判断となりがち。

なぜ人は空気を読むのか。

衝突を避け、その場を穏便に収め、居心地の良い空間にしておくため
最終的な結果はさておき、物事をスムーズに進めるため
相手を不機嫌にさせたり、自分が嫌われないようにするため

すべては、自分と他人との「関係性」を重視した判断。

本来の目的を達成するためには、相手を思いやる能力より、まずは空気を読まずに自分の要求をぶつけてみて調整すべき。
これは、このとおり行動すればよいだけの話なので、頑張るしかない。以上おわり。

 

もっと根本の問題で自分にとって厄介なのは、
そもそも読むべき「空気」が存在してしまっていること、である。

空気を読む技術は、すでにコンテキストが出来上がったコミュニティでこそ威力を発揮する。

日本における「集団」は特にハイコンテキスト。会社の部署、昔からの友達、などなど、規律や価値観や独自の文化が確固たるものになっている。

あえて言葉にせずとも通じ合えるハイコンテキストな雰囲気が一体感を生むし、言葉にせず、あるいはその集団でしか通じない言葉を増やすことこそ、その集団が強固となり、居心地の良さに繋がったりする。

だから、もっと集団の構成員が多様化し、年功序列的な規律も緩い、そんな集団に積極的に関与したほうがいい。

1から10まできちんと前提を説明して、ようやく話が通じる、そんなカオスな集団だったり、自分が最も苦手な「立食パーティー」だったり。

空気読み癖を直すなら、そんな場に身を投じるのが良いのではなかろーか。