鴻上尚史著「コミュニケーションのレッスン」


今さらだけど、コミュニケーションにかかる心的負担をもっともっともっと軽くして、心地よくありのままに生きたいなーと思う今日この頃。

会社の中で自分の立ち位置が変わると、接する人も変わるし、多くなるし、いろんな人のいろんな考え方がある。また、仕事の関わり以外の趣味や地域の人と会話する機会も増え、それこそ生活環境、価値観すら違う人ばかり。

そんなこんなで、「コミュニケーション」に対する自分なりの新しい視点が欲しいなあ、と思い読み進める。

この本は、コミュニケーションは技術であるという前提のもと、情報と感情、日本語と英語、世間と社会・・・など、相対するそれぞれの切り口から、コミュニケーションというものを考察してる。
面白かった。

 

■コミュニケーションとは、情報と感情のやりとりである

自分は、ほぼ情報しか伝えない人種。著者によると、その人のコミュニケーションは親から学んでいると。なるほど、、

人は感情で動く、ということも理解しているし自分も超感情で動くのだけれど、どうして自分は理性優先。
でも1つ気づいた。感情表現とは、感情的に表現するという方法だけでなく「感情を情報として伝達する」という方法もあるのだと。

「好きだよ」は恥ずかしいけど、「好きだと思っているよ」は言いやすい。ううん、ちょっと違うか。


■日本語は相手との関係性が分からなければ、YOUさえ訳せない言語

日本語は関係性の言語である。年齢や関係が分からなければ、あなた、お前、なのか、YOUすら訳せない。特に、すでに人間関係が出来ている集団「世間」で育った言語である。だからこそ、日本人は気心知れた「世間」と、関係性のない「社会」との壁が高く、2つの世界を生きている。このことはコミュニケーションをやりづらくしてると思う。

自分でもこんなことが良くある。見ず知らずの関係から、徐々に仲の良い友人なってきて、どのタイミングで敬語からフランクなコトバに変えようか迷う場合だ。つまり、その人が社会から世間に入ってきたのである。ずっと敬語だとよそよそしいと思われるし、かといって突然フランクなコトバに変えるのも恥ずい。たまに敬語、たまにフランク語を織り交ぜながら。LINEやメールでは敬語、とか。そもそも敬語、フランク語って何やねんと。

本にも書いてあったが、全部「ですます調」で統一してみよう。関係性がうんぬんは取っ払って、情報と感情が交換できればそれで良い、と割り切る。

 

■世間話より社会話

まったく見ず知らずの人と、ちょっと会話するときって、温かい気分になることが多い。多いのが道を聞かれた時、ちょっとだけ親切に説明したり、道順以外の会話もするとなんか気分いい。外国人はエレベーターで一緒になると必ず笑顔で挨拶してくれる。外国人にとっては狭い空間で二人きりになるのに会話しないほうがおかしい、らしい。

そうだね、クローズな人間関係の世界で感情を交換するだけの「世間話」より、見ず知らずの人と軽く感情を交換する「社会話」が気軽にできる世の中になるといいな。

 

■交渉は、「語りたい思い」と「伝える技術」で成り立つ

自分は誰かを指導したり説得する際、「うまく言おう」「うまくその場をとりつくろう」という手法論に目が行きがち、つまり伝える技術のほうを意識しすぎ。その分、結局自分は何を伝えたいのか?相手にどうなって欲しいのか?を見失うことがある。先日お亡くなりになった大林亘彦監督でさえ、撮影の時は常に怯えていたらしい。怯えても良い、でも指示がブレてはダメだよ、と。自分が怯えていることは認めて、でも指示が一貫していれば相手には怯えが分からない。語りたい思いをしっかり持ちなさいと。
常に丹田を相手に向けて。